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喫茶去(きっさこ)

あひる課長さん

夏ころから始めたヤボ用の中で、
茶道の師範をされている方から
色々な話を聞かせていただきました。

その中で、一番印象に残っているのが
「喫茶去」という教え(?)考え方です。
師範からは
「『お茶でもどうぞ』、
  といってうちに来た人には必ずお茶を飲んでもらうようにしているの」
と茶道の心得もないワタクシにでもわかりやすく教えていただきました。

先日、その意味を詳しく調べてみました。
ワタクシなりに解釈したので、多少本意からは外れているかもしれませんが
ご紹介だけしておきましょう。




「喫茶去」の去の字は喫茶の強調の助辞であり、
去るという意味はなく、
「お茶を一服如何ですか」とか「どうぞお茶でも召し上がれ」
という程度の意味に過ぎないが、
「どうぞ、お茶でも召し上がれ」という喫茶去の心。

中国の有名な禅僧の話で、
ある和尚のもとに修行僧が教えを頂きたいとやって来た。 

和尚「お前さんはかってここに来たことがおありかな?」
僧 「はい、以前にも参りました。」
和尚「喫茶去」(さようか、ならばお茶でも一服おあがりなさい)

またある時、別の修行僧がやって来た。

和尚「お前さんはかってここに来たことがおありかな?」
僧 「いいえ、ここに来たことはありません」
和尚「喫茶去」(さようか、ならばお茶でも一服おあがりなさい)

これを聞いていたこの寺の院主は
「和尚は以前ここに来た者にも、はじめての者に“お茶をどうぞ”
 と同じことをいわれるがどういうわけなんですか?」

とたずねた。和尚はこれに答えず「院主さん!」と呼ぶ。
院主は思わず「はい」と答えたその瞬間、
和尚はまた「喫茶去」(まあ、お茶でも一服召し上がれ)

このとき院主は、はっと悟ったという。
それぞれ立場の違う三人に対し、ただ「喫茶去」と云って接したのは
和尚の相対する分別、取捨、過去・現在、あちら・こちら
と分かつ一切の意識を断ち切った、
絶対の境地のあらわれに他ならない。
そこには、凡聖、貴賎、男女、自他等の分別は無く
一切の思量の分別の無い無心の境地からの「喫茶去」なのだ。

この無心の働きからでるところに、
茶道家はこの「喫茶去」の語を茶掛けとして尊んで自ら無心に茶を点て、
貧富貴賎の客を択ばず無心に施す心を養ってきたことだろう。
私たちはおうおうにして、好きな人や、金持ちや身分の高い人が来れば鄭重にもてなし、
嫌いな人や貧しい人にはいい加減な対応をしてしまいがちである。
分別を入れず、誰に対しても計らい無く、真心から接して行きたいものである。




さて、この話を聞くとワタクシは非常に恥ずかしくなってきてしまいます。
接する相手によって、対応は変わるし、分け隔てもありありです。

逆に、師範のお宅に伺った際も、
お茶を出していただいておりますが、
師範はワタクシを区別することなく、もてなしてくれます。

師範にもしも分別の意識があったら、
ワタクシはお茶ではなく、
泥水を飲まされる程度のような人間のような気もします。

そんなワタクシをもてなして下さる師範は
やはり人格者であり、尊敬に値するのです。

そして、師範と同じ場所、同じ時間を過ごすことで
多少なりともワタクシの人間性が磨かれればと
身勝手に願うワタクシなのです。

たまには、真面目な話なり。



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[ 2012/01/12 18:45 ] B級ライフ(雑言) | TB(0) | CM(2)

こんにちは。 いい話ですね。 人を身なりや身分で区別するのではなく、同じように接する、俺は全然できていません。 一瞬でも「はっ」っと思う瞬間が増えていくように努力します。 仙台で若いボランティアの人たちの話を聞けたのもこういうことを思い知らせてくれました。
[ 2012/01/15 15:00 ] [ 編集 ]

Re: 圧巻兵衛さん

>人を身なりや身分で区別するのではなく、同じように接する、

  当たり前のようで、なかなか難しいですよね。
  悟りをひらくという感じなのでしょうかね?

柄にもなく、マジメな話を書いたので、
具合が悪くなった気もします。
早くいつものグダグダに戻ろうかと思っています。

いつもありがとうございます。
[ 2012/01/15 17:38 ] [ 編集 ]

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